大阪大空襲
2022年8月14日

おはようございます。医師の中村です。訪問診療で関わった患者さん達とお話ししていますと、よく戦争のころの体験を語られます。
今日、8月14日は大阪への最後の大空襲が行われた日です。大阪の空襲の本をいくつか読んでみると、熾烈を極めたものだったことがわかります。

サイパン島守備隊が全滅したのが1944年7月7日で、同島にマリアナ基地B29の前線基地が建設され、日本本土への空襲が始まりました。
マリアナ基地が建設されたことで、日本全土のほぼ全域がB29の行動半径内となりました。1944年10月28日から1945年8月15日までの間に、マリアナ基地からの作戦任務は331号にまでのぼりました。その詳細は、小山さんの著書「日本空襲の全容」にまとめられています。作戦の概要を記載するだけで1冊の本が出来上がるほど、頻回の本土空襲が行われていました。

その中で、大阪への爆撃は、8回の大空襲を含めて約50回行われ、全空襲の被害は、死者12620人、重軽傷者31088人、行方不明2173人にのぼったと記載されています。最初の大空襲は、作戦任務第42号 1945年3月13日 コード名 ピーチブロウNo.1 大阪市街地が目標 出撃爆撃機数 295機。最後の大空襲(8回目)は終戦前日の8月14日に行われました。作戦任務第326号 1945年8月14日 大阪陸軍造兵廠(しょう) 第73航空団 161機 目標に650個の命中弾。今の大阪城公園近くにあった陸軍の工場だったところが目標にされました。

小山さんは著書の中で、「四〇年の歳月がたった今日、空襲体験者は私のような昭和一けた世代だけになってきつつあるようだ。青空をみても、サイレンが鳴っても、花火が打ち上げられても、雷鳴がとどろいても、反射的に思い出すのは空襲である。骨身にしみて刻みつけられた体験を若い世代になんとか語りついで、戦争のひどさ、平和の尊さを知ってもらいたい。」(小山198、、p.7)と述べています。
40年の歳月がたっても、空襲体験はトラウマになっていると語り、戦争のひどさと平和の尊さを訴えられています。

大空襲で大阪の街はほとんど焼けてしまいました。運よく家が残ってたとしても、焼け残っているのが申しわけないような気持だったといいます。結局、そう語った方の家も空襲で焼けてしまい、「いつかは焼けると思っていたのが、とうとう焼けた。これですっきりした。みんな家が焼けているのだから、これでやっと一人前になった」(小山 1985、 p.252)と語っています。空襲にさらされ続けた人たちが、異常な心理状態にあったことがうかがえる語りだと思います。

小山さんは戦争が終わった時のことを振り返り「暗い街頭に電燈がつけられ、焼け跡の壕舎からは久しぶりに燈火がもれた。人びとは電燈の防空カバーをとり外し、街燈がついたのを仰ぎ、家々から光がもれているのをみて、戦争が終わったことをしみじみと実感した。夜、電燈をつける、この文明社会ではあたりまえのことができるようになったのである。」(小山 198、、p.336)

夜に電燈をつける。あたりまえのことができるようになったことで、戦争が終わったことを実感したといいます。
今日は、あたりまえのことができる日々に感謝する日にしたいと思います。

小山仁示(1985)「大阪大空襲」東方出版
小山仁示(1995)「日本空襲の全容」東方出版

無 料

在宅療養でお悩みご相談のある方、
10分無料電話相談をぜひご利用ください

070-3351-4715

在宅療養についてのご相談に、ベテランスタッフが丁寧にお答えします。

  • 介護のお悩み
  • 訪問医療への疑問や質問
  • 緩和ケアの可能性
  • 費用のご心配
  • ご自宅でのお看取り 等々
  • 受付時間は9:00〜17:30までとなります。
  • 1回10分以内でのご相談でお願いしています。
  • 混雑してかかりにくいときは、しばらくしてからおかけ直しください。